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浦和地方裁判所 昭和58年(ワ)1172号 判決 1990年1月24日

主文

一  被告は原告に対し、金一〇万円及びこれに対する昭和五八年一二月一四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一〇〇万円及びこれに対する昭和五八年一二月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は、昭和五八年六月一五日午後一〇時頃、普通乗用自動車(以下「原告車」という。)を運転し、関越自動車道新潟線(以下「関越道」という。)下り車線の花園インターチェンジ付近を走行していたところ、埼玉県警察本部交通部高速道路交通警察花園分駐隊所属のA警部補、同B巡査らが原告車を停車させ、原告を逮捕した上、花園分駐隊に引致し、翌一六日午後三時三〇分頃まで原告を児玉警察署留置場に留置した。

2  しかしながら、右逮捕の理由となるべき被疑事実(通行帯違反)は存在せず、また、仮に被疑事実が存在するとしても、逮捕、留置の必要性がなかったので、右逮捕、留置は違法である。

3(一)  原告は、A警部補の違法な逮捕によって両手首に加療約一四日間の打撲症発赤腫脹の傷害を被った。

(二)  原告は、昭和五〇年三月、学習院大学フランス文学科を卒業し、その後、翻訳、英文タイプなどの仕事に携わってきたものであるが、もとより前科前歴もなく、昭和五八年五月、日本生命保険相互会社に外務職員として入社し、本件逮捕の数日前から保険外交実務に従事していたものであるところ、本件逮捕によって無断欠勤となり、会社を解雇されるのではないかと危惧した。また、原告は、本件逮捕の当日、疲労していたので早く帰宅して休みたいと考えていたのに、違法な逮捕によって、児玉警察署の留置場に連行され、男性の警察官から身体検査及び所持品検査を受け、かつ眠れぬ一夜を余儀なくされた上、翌日は、写真を撮られたり、指紋を採取されるなどして不当な人権侵害を被った。

(三)  以上のように、原告は、本件逮捕及び留置により、著しい精神的、肉体的苦痛を被ったものであり、これに対する慰謝料は一〇〇万円が相当である。

よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条に基づき、一〇〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和五八年一二月一四日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求の原因に対する認否

1  請求の原因1の事実は、釈放時刻を除き、認める。

釈放時刻は一六日午後二時〇五分である。

2  同2は争う。

3(一)  同3(一)のうち、原告が花園分駐隊に連行された時、原告の手首に赤い筋状の跡があったこと(出血はなく、治療の必要はない状態)は認めるが、その余は否認する。

(二)  同(二)のうち、原告が児玉警察署に留置され、所持品検査、写真撮影、指紋採取をされたことは認めるが、原告に前科のないこと、原告が身体検査をされたこと、原告が人権を侵害されたことは否認し、その余は不知。

原告は、昭和五二年三月九日、墨田簡易裁判所において、自動車の保管場所の確保等に関する法律違反により罰金七〇〇〇円に、翌五三年五月一一日、熊谷簡易裁判所において、道路交通法違反(速度違反)により罰金一万七〇〇〇円に処せられている。

三  抗弁

本件逮捕及び留置は、以下に述べるように適法である。

1  被疑事実の存在

原告は、昭和五八年六月一五日午後一〇時頃、関越道下り線五三・六キロポストから五五・六キロポストまでの間、追越車線を走行する必要がないにもかかわらず追越し車線を走行した。

A警部補は右違反事実を現認した上で原告を現行犯として逮捕したものである。

2  逮捕の必要性

(一) 刑事訴訟法及び同規則には、現行犯逮捕の要件として、逮捕の必要性を要する旨の明文の規定は存在しないのみならず、現行犯逮捕は誰でも行うことができるのであるから、逮捕の必要性は、現行犯逮捕の要件ではないと解すべきである。

(二) 仮に逮捕の必要性が現行犯逮捕の要件であるとしても、次の事実に照らすと、原告には、逃亡及び罪証隠滅のおそれがあり、逮捕の必要性があった。

(1) A警部補らは、原告が道路交通法違反(通行帯違反)をしているのを現認し、サイレンを吹鳴し、原告車の後方約四〇メートルまで接近し、拡声器により、原告に対して停止するように指示したが、原告は、進路を走行車線に変更したのみで、停止しなかった。

(2) そこで、A警部補らは、追越車線を進行して原告車の右前方約一〇メートルの位置に出、パトサインを点滅させて停止の合図をした上、拡声器で停止を指示するとともに、追越車線、走行車線、路側帯と順次進路を変更しつつ減速して停止を促したが、原告は減速すら行わず、進路変更したパトカーの右側を追い抜いて走行した。

(3) A警部補らは、再び追越車線を進行し、原告車の右前方約一〇メートルの位置に出て、前と同様の方法により停止を指示した上、順次進路を左に変更して路側帯に停止したところ、原告車もこれに従い、パトカーの後方約六メートルの路側帯に停車した。

(4) A警部補は、原告車の運転席付近から、原告に対し、原告が通行帯違反をしたので、運転免許証と車検証を見せるよう求めたところ、原告は、運転席に座ったまま運転免許証を差し出し、「私は疲れているのよ。何が通行帯違反なのよ。早く帰りたいの。」と大声で言った。

(5) A警部補は、原告が違反事実を否認し、冷静さを欠いた態度を示したため、照明が明るく、車内が広いパトカーの中で、違反事実を説明する必要があると考え、同人に対してパトカーの方に来るように告げるとともに、B巡査に対し、パトカーを原告車の後方に下げて矢印板を置くよう大声で指示したところ、原告車から降りて来た原告が「威張って大きな声で言わなくてもいいじゃないか。」と言った上、A警部補に対し「身分証明書を見せろ。ここに弁護士を呼べ。パトカーのナンバーを覚えて訴える。」と怒鳴った。

(6) A警部補は、原告に警察手帳を見せた方が冷静になると考え、B巡査がパトカーを原告車の後方に後退させたのを見届けた後、警察手帳を出し、パトカーの前照灯の明かりを利用して原告に示すと、原告は、それを眺めながら「埼玉県警察、A」と声を出して読んだ。

(7) 次いで、A警部補がパトカーの前照灯で原告の運転免許証を確認しようとすると、原告は、やにわに、A警部補から運転免許証を取り上げ、原告車の運転席に乗り込んだ。

(8) そこで、A警部補は、「逃げるのか。違反の説明をするから待て。」と告げたが、原告は、「違反の説明なんかいいよ。疲れているんだから、帰るよ。」と言いながら、原告車を発進させようとした。

A警部補は、原告車のエンジンキーを抜こうとしたが、暗くて場所が分からなかったため、やむを得ず、原告の右肩に手をかけて「逃げるのか。降りろ。まだ免許証も確認していない。」と大声で告げると、原告車は約三メートル右前方に進行したのみで停止した。

(9) A警部補は、走行車線上に立つ形となったため、原告車の後方約二メートルの位置に移動したところ、原告は、降車して、A警部補の左前下腿部を蹴ったり、同警部補の着ていた夜光チョッキの胸部付近を掴んで引いたり押したりした上、同人の両前腕部を爪で引っかいた後、「話にならないから、帰る。」と怒鳴って逃走しようとした。

A警部補は、原告の住所氏名を確認していなかったのに、原告が逃走しようとしたので、逮捕の必要があると判断し、通行帯違反により逮捕する旨を告げて、原告の両手首を両手で押さえて逮捕したものである。

なお、原告は、右逮捕後、A警部補の手を振り切ろうとしたり、同警部補の下腿部を蹴るなどして激しく暴れたので、A警部補は、B巡査に命じて原告の両手に手錠をかけさせた。

3  留置の必要性

(一) 被疑者の留置の必要性は、被疑者の供述内容、供述態度のほか、その家族関係、勤務状況、資産状況、前科前歴、その他の広範な資料を総合して判断すべきであって、右資料の収集並びに逮捕、留置の事務処理ないし関係書類の作成上必要な時間内は留置の必要性があるというべきである。

(二) 原告は、花園分駐隊に引致された後も職業を黙秘し、自宅の電話番号などの連絡先も告げなかったので、原告が、免許証記載の住所に居住しているか否かを確認することができず、その家族関係、勤務状態、資産状況なども全く不明であった。

そして、花園分駐隊のC巡査部長が原告に対し、通行帯違反の事実を告げて、弁解の機会を与えたところ、原告は、被疑事実を全面的に否認したうえ、弁解録取書の署名押印すらも拒否した。

このように、C巡査部長らは、原告の免許証の確認をすることはできたものの、原告の身元関係を確認するには至っておらず、原告が、通行帯違反の事実を全面的に否認し、非協力的ないし反抗的態度を取っていたことをも総合すると、原告については、逃亡又は罪証隠滅のおそれがあったというべきである。

加えて、原告が花園分駐隊に到着したのは午後一〇時四〇分過ぎであり、弁解録取が終了したのは午後一一時頃であったのでそれ以上、原告の取調を継続することは相当でなかったので、原告の留置を継続することにしたものである。

右のように、原告を留置する必要性があったことは明らかであり、弁解録取の後においても、原告の留置を継続し、児玉警察署に原告を留置した措置は適法である。

四  抗弁に対する認否

1  抗弁1のうち、原告が昭和五八年六月一五日午後一〇時頃、関越道下り線を走行していたことは認めるがその余は否認する。

2(一)  同2(一)は争う。

(二)  抗弁2(二)は争う。

(1) 同(1)のうち、A警部補らがサイレンを吹鳴したこと及び原告車がA警部補らの停止の指示に従わなかったことは否認し、その余は知らない。

(2) 同(2)のうち、原告車が減速すら行わず、進路変更したパトカーの右側を追い抜いて走行したことは否認し、その余は認める。

(3) 同(3)のうち、原告車がパトカーの後方約六メートルに停車したことは否認し、その余は認める。

(4) 同(4)のうち、A警部補が原告車の運転席付近から、原告に対し運転免許証の提示を求めたこと、原告がA警部補に運転免許証を提出した後、疲れているので早く帰りたい旨申し述べたことは認め、その余は否認する。

(5) 同(5)のうち、A警部補がB巡査に対し、パトカーを後方に下げて矢印板を置くよう大声で指示したこと、原告が「威張って大きな声で言わなくてもいいじゃないか。」という趣旨の発言をしたこと、原告がA警部補に対して身分証明書の提示を要求し、弁護士を呼ぶよう要求したことはいずれも認めるが、その余は否認する。

(6) 同(6)のうち、B巡査がパトカーを原告車の後方に後退させたこと、A警部補が原告に警察手帳を示したこと及び原告がそれを眺めながら、「埼玉県警察、A」と声を出して読んだことはいずれも認めるが、その余は否認する。

(7) 同(7)(8)の事実はいずれも否認する。

(8) 同(9)のうち、原告が、A警部補の着ていた夜光チョッキの胸部付近を両手で掴み、それを引いたり押したりしたこと、A警部補が原告の両手首を両手で締めつけたこと、原告が弁護士を呼ぶように言ったこと、原告がA警部補の手を振り払おうとしたこと、A警部補がB巡査に対し、原告に手錠をかけることを命じ、B巡査が原告の両手に手錠をかけたことはいずれも認めるが、その余は否認する。

原告は住所が定まっていたほか、当時日本生命保険相互会社に勤務し、生活は安定していた。A警部補らは原告を見て職業柄そのことを知り得たはずであるし、まして同警部補らは原告から運転免許証及び車検証を交付されていたのだから、これらの記載により、原告の住所を確認していたはずである。

また、被疑事実の通行帯違反は、法定刑が五万円以下の罰金であり、処罰を免れようとするほどの重い刑の犯罪ではない。

さらに、原告は、A警部補の要求に応じて、運転免許証及び車検証を同警部補に手渡し、協力的な態度を取っていたのであって、現場の状況から見て逃亡のおそれがあると認め得る具体的行為はなかった。

加えて、警察官の現認行為を唯一の証拠とせざるを得ない車両通行帯違反については、罪証湮滅の余地がない。

3(一)  抗弁3(一)は争う。

(二)  同(二)は争う。

花園分駐隊のC巡査部長は、原告の本籍、住所、氏名、生年月日等を確認し、A警部補は、原告宅に電話をかけて原告の母との連絡がついていたのであり、また、前述のように、本件被疑事実については罪証湮滅の余地がなかったのであるから、原告を留置する必要はなかった。

第三  証拠関係<省略>

理由

一  原告の逮捕、留置

請求の原因1の事実(逮捕、留置の事実)は、釈放時刻を除き当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、原告の釈放時刻は昭和五八年六月一六日午後二時〇五分であると認められ、証人武政昌代の証言及び原告本人の供述中、右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

二  逮捕の適否について

1  被疑事実の存在

原告が被告主張の日時頃関越道下り線を走行していたことは当事者間に争いがなく、右争いのない事実並びに<証拠>を総合すると、A警部補及びB巡査が昭和五八年六月一五日パトカーに乗車して交通指導取締りに従事し、関越道下り線を走行し、嵐山パーキングエリアから約二キロメートル進んだ地点で同一方向に走行していた原告車を発見したので、交通違反がないかを注視していたところ、原告車が五三・六キロポスト付近から五五・六キロポスト付近までの約二キロメートルの間、他に同一方向に進行する車両が存在せず、追越車線を走行する必要がないのに同車線を走行したのを現認したことが認められ、原告本人の供述中、右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

右事実によれば、原告に被告主張の被疑事実(通行帯違反。道路交通法一二〇条一項三号、二〇条一項)のあったことが認められる。

2  逮捕の必要性

(一)  被告は、逮捕の必要性は現行犯逮捕の要件ではないと主張するが、現行犯逮捕に限り、通常逮捕及び緊急逮捕と区別して考える合理的理由は存しないから、現行犯逮捕においても、逮捕の必要性がその要件となると解するのが相当であって、被告の右主張は採用することができない。

(二)  そこで本件現行犯逮捕における逮捕の必要性の存否について検討するに、A警部補が追越車線を進行し、走行車線を進行する原告車の右前方約一〇メートルの位置から原告車に対し、パトサイン及び拡声器によって停止を指示した上、順次進路を左に変更して路側帯に停止したところ、原告車もこれに従って停止したこと、A警部補が原告車の運転席付近から、原告に対し運転免許証の提示を求めたこと、原告がA警部補に運転免許証を提出した後、疲れているので早く帰りたい旨申し述べたこと、A警部補がB巡査に対し、パトカーを後方に下げて矢印板を置くよう大声で指示したこと、原告がA警部補に対して、威張って大きな声で言わなくてもいいという趣旨の発言をしたこと、原告がA警部補に身分証明書の提示を要求し、弁護士を呼ぶように要求したこと、B巡査がパトカーを原告車の後方に後退させた後、A警部補が原告に警察手帳を示したこと、原告が警察手帳を眺めながら「埼玉県警察、A」と声を出して読んだこと、原告がA警部補の着ていた夜光チョッキの胸部付近を両手で掴み、それを引いたり押したりしたこと、A警部補が原告の両手首を両手で掴んだこと、両手首を押さえられた原告が弁護士を呼ぶように言ったこと、原告がA警部補の手を振り払おうとしたこと、A警部補がB巡査に対し、原告に手錠をかけることを命じ、B巡査が、原告の両手に手錠をかけたことはいずれも当事者間に争いがない。

右争いのない事実及びに<証拠>を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) A警部補及びB巡査は、通行帯違反をして追越車線を走行していた原告に対し、交通指導を行うため、サイレンを鳴らし、原告車の後方約四〇メートルから拡声器により、左側に寄って停止するよう数回指示したところ、原告車は追越車線から走行車線へ進路を変更したが、停止の指示には従わなかった。

(2) そこで、A警部補は、原告車を追い越し、原告車の約一〇メートル前方から、停止を命ずるパトサインを出しながら、拡声器により停止するように呼びかけ、原告車の約四〇メートル前方を追越車線から走行車線、路側帯へと順次パトカーの進路を変更しつつ減速することにより停止を促したが、原告車は停止せず、パトカーを追い抜いて走行した。

(3) A警部補らは、再び路側帯から追越車線へ入り、原告車を追い抜きつつ、その前方約一〇メートルの位置から拡声器で、左側に寄って停止するよう指示し、原告車の約四〇メートル前方を左に横切り、前同様、順次路側帯へと進路変更し、五六・六キロポスト付近の路側帯に停止したところ、原告車は、パトカーの約六メートル後方の路側帯に停止した。

(4) A警部補は、原告車の運転席付近から原告に対し運転免許証の提示を求め、同人から運転免許証を受け取った。その後、A警部補は原告から疲れているので早く帰して欲しい旨申し述べられたが、パトカーの後部座席で違反の説明をしようと考えていたため、「パトカーの方で説明します。」と言った後、事故防止のため、B巡査に対して、パトカーを原告車の後方に後退させるように大声で指示した。すると、原告は、原告車を降り、A警部補に対し、威張って大きな声を出さなくてもいいという趣旨のことを言い、警察手帳を見せるように要求した。

そこで、A警部補は原告に警察手帳を示し、次いで、原告から受け取った運転免許証をパトカーの前照燈に照らして確認しようとしたところ、原告は、運転免許証をひったくり、原告車に乗り込んでしまった。

(5) A警部補は、「逃げるのか。違反の説明をするから待て。」と言ったところ、原告は、「違反の説明なんかいいよ。疲れているから帰る。」と言って指示に従わず、原告車をゆっくりと約三メートル進めた。

そこで、A警部補がB巡査に対し、原告車のナンバーを確認するよう命じると、原告は、降車し、いきなりA警部補の左下腿部を足蹴りし、同警部補が着用していた夜光チョッキの両脇を両手で掴んで押したり引いたり、同警部補の足を踏むなどした後、「話にならないから、帰る。」と言って原告車の方へ戻ってしまった。

(6) A警部補は、原告の住所、氏名を確認する前に、運転免許証を取り返された上、原告が逃走しようとしていたため、逮捕する必要があると判断し、原告に対し、通行帯違反により逮捕する旨を告げ、両手で原告の両腕の前腕部の中間付近を掴んだところ(午後一〇時〇五分頃)、原告は弁護士を呼ぶように叫び、A警部補の手を振り切ろうとして、しゃがんだり、手を突き上げたり、左右に揺すったりして、A警部補の手を二度ほど振り離した。

そこで、A警部補はB巡査に対し、原告に手錠をかけるよう命令し、B巡査は左腰につけていた手錠入れから手錠を取り出して原告に手錠をかけた。

以上の事実が認められ、原告本人の供述中、右認定に反する部分は採用することができず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

ところで、逮捕の必要性とは、罪証湮滅又は逃亡のおそれのある場合をいうと解されるところ、右認定事実によれば、A警部補は、原告から運転免許証の提示を受けたものの、原告の住所、氏名を確認する前に、運転免許証を取り返され、しかも、原告は取調べに対して反抗的な態度を示し、現場から立ち去ろうとしていたことが認められ、右事実にかんがみると、原告には逃亡のおそれがあり、逮捕の必要性があったというべきである。

もっとも、本件被疑事実(通行帯違反)は、罪質が軽微であり、<証拠>によれば、通行帯違反のみを理由として逮捕することは希有であることが認められるが、罪質軽微な事案であっても、現行犯人の身元が確認されていない場合には、被疑者がその現場を立ち去ることによって被疑者の氏名及び所在が不明となり、その処罰が著しく困難になることは明らかであり、右事実にかんがみると、現行犯人の身元が確認されていないときは、逮捕の必要性があるというべきである。

3  以上によれば、A警部補らが原告を逮捕したことは、その余の点について判断するまでもなく適法である。

三  留置の適否について

1  被告は、留置の必要性は、被疑者の供述態度、供述内容のほか、その家族関係、勤務状況、資産状況、前科前歴など広範な資料を総合して判断すべきであり、右資料が整うまで留置の必要があると主張するので、この点につき判断するに、被告の右主張は一般論としては首肯し得るとしても、右原則を全ての場合に一律に適用するのは相当ではなく、特に、通行帯違反のような軽微な形式犯についてまで、家族関係、勤務状態、資産状況、前科前歴など広範な資料を整えなければ留置の必要性を判断することができないわけではない。

そして、刑事訴訟法二〇三条一項が「留置の必要がないと思料するときは直ちにこれを釈放し」なければならない旨を規定し、犯罪捜査規範二一六条が交通法令違反事件に関して、「交通法令違反事件の捜査を行うに当っては、事案の特性にかんがみ、犯罪事実を現認した場合であっても、逃亡その他の特別の事情がある場合のほか、被疑者の逮捕を行わないようにしなければならない。」と規定していることにかんがみると、極めて軽微な交通法令違反事件であってかつ行為者の身元が判明しており、逃走のおそれがないと認められる場合には、特段の事情が認められない以上、現行犯を留置する必要はないというべきである。

2  そこで、本件の場合について検討するに、<証拠>によれば、原告は、逮捕後の一〇時四二分頃花園分駐隊に引致され、C巡査部長から弁解録取をされた際、住所は運転免許証に記載のとおりであると述べ、C巡査部長は右申述に疑問を抱かず、原告の運転免許証により原告の氏名、住所、本籍、生年月日などを確認し、原告の身元が判明したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

右事実及び原告の被疑事実の罪質が極めて軽微であったことなどにかんがみると、原告に対する弁解録取が終了した時点においては、原告には逃走のおそれがなく、原告を留置する必要性はなかったというべきである。

したがって、A警部補らは、右の時点において原告を釈放すべきであったのであり、それにもかかわらず、原告の留置を継続したことは違法というべきである。

以上によれば、A警部補らは、埼玉県警察所属の警察官としてその職務を行うについて、過失によって違法に原告の身体の事由を拘束したのであるから、被告は国家賠償法一条一項により原告の被った損害を賠償すべき責任がある。

四  損害について

前記一ないし三の認定事実及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、昭和五〇年三月学習院大学フランス文学科を卒業した女子であって、本件留置当時、日本生命保険相互会社の外務職員であったところ、昭和五八年六月一五日午後一〇時四二分過ぎ頃、花園分駐隊において弁解録取された後、引き続き、翌一六日午後二時〇五分まで児玉警察署に留置され、その間、所持品検査、写真撮影、指紋採取などをされたこと(この事実は当事者間に争いがない。)が認められ、右事実及び本件に現れた諸般の事情を考慮すると、右苦痛に対する慰謝料は一〇万円とするのが相当である。

五  結論

よって、原告の本訴請求は、前記慰謝料一〇万円及びこれに対する訴状送達の翌日である昭和五八年一二月一四日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、右限度でこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用し、仮執行宣言については、原告が右認容額を早期に取得すべき必要性があるとは認められず、また被告の支払能力について危惧すべき点もないので、これを却下することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高橋 正 裁判官 鈴木航兒 裁判官 合田智子)

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